市の概要
東京都のほぼ中央に位置する昭島市は、都心から西に約35km、武蔵野台地の南縁、多摩川北岸に位置しており、北部には玉川上水が西から東へ流れています。周辺都市は東と北が立川市、西は福生市、南は八王子市と日野市に接しています。
また、市内の各所から富士山が望め、南側には多摩川が流れ、沿岸は沖積層。その北側は洪積層の武蔵野台地と呼ばれる「関東ローム層」に厚くおおわれて、その下には豊富な地下水が含まれ、これが段丘の崖下などに露出し湧き水となっています。“水と緑あふれるまち”が『昭島』です。
面積は17.33㎢、周囲は19.58㎞、東西6.06㎞、南北3.88㎞で、海抜は最高170.72m。最低76.68mで、北西から南東に向かって、多摩川まで緩やかな傾斜を保っています。
人口は11万人を超え、多摩地区の中核的な都市として発展しています。
市の東から西にJR青梅線の路線が市を南北に分けており、北側は住宅と商業地の開発が進み、団地、工場地、ゴルフ場と昭和58年開園の国営昭和記念公園があります。南側は住宅地の占める割合が多く、都心まで約40分と交通の便も良いので、高層住宅の建設が続いています。
市のあゆみ
昭島市は、昭和29年5月1日に昭和町と拝島村が合併し、東京都で7番目の市としてスタートしました。『昭島』の名前は、昭和町の「昭」と拝島村の「島」を合わせたものです。
林ノ上や上川原地域から縄文遺跡も発見され、南向きの段丘に位置し日当たりがよく、豊かな湧き水にも恵まれていたので、9千年前から人が住んでいたことを知ることができます。
【古代・中世】
952年の洪水により多摩川上流の日原村日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が大神の中州の島に流れ着き、尊像は村人らに拝まれるようになり、お堂を建てて坐像を安置しました。
その後この地域が「拝島」という地名になり、滝山城築城時に、城の鬼門よけとなる現在の位置に大日堂を遷し、坐像を祀ました。
【近世】
滝山城(1521年)が多摩川対岸築城され、城下町としての様相を呈してきました。1569年には武田信玄軍が拝島大師に陣を構え、武田勝頼らにより滝山城の北条氏照を攻撃しました。
文禄年間に奥多摩街道と千人同心街道が交差するところに「拝島宿」が形成され、1652年より八王子千人同心が日光勤番の任務をする際に「拝島の渡し」を通り往来をしていたため、拝島宿は人馬の継ぎたて役となり、次第に宿場町として栄えてきました。1685年には、多摩川右岸にあった作目村が洪水で流出し、村民が対岸の田中村(現在の田中町)付近に避難し、定着した。
1866年(慶応2年)6月、武州一揆の支隊が多摩川の河原に集結し、「築地の渡し」で日野農兵隊と交戦となったが、一揆は鎮圧されました。
江戸時代は、徳川領で「郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中・拝島」の9カ村があり、多摩川には「拝島の渡し・築地の渡し・平の渡し」の3つの渡しがあった。
【明治時代~昭和初期】
1871年 (明治4年)廃藩置県により、9カ村は神奈川県に編入。1893年(明治26年)に今度は東京府に編入された。1871年 (明治35年)に「拝島村」が分離独立し、1929年(昭和3年)には8村が合併し「昭和村」となった。
1872年(明治5年)に学制が発布され、玉川小学校が福島村私塾として生まれ、翌年に成隣小学校の執中学舎として、更にその翌年に拝島第一小学校が知遠学舎として開校された。
昭島は、明治時代末より製糸工場が相次いで操業を開始し、大正時代に入ると市域一帯に桑が植えられるなど、この時期養蚕業が特に盛んであった。カイコの卵の生産を中心として、東京の生産高の3割近くを占め、全国的に見てもかなりの規模を誇る養蚕地域となっていました。
昭和時代に入ると、生糸価格が急激に下落していったために養蚕農家の戸数は減少し、養蚕業はほとんど行われなくなり、軍需工場、軍施設が設置され、大桑田地域も工場地域と急激に変貌し、1941年(昭和16年)に昭和村は町制を施行し「昭和町」となりました。
【昭和初期~戦時中】
1922年(大正11年)に設置された立川飛行場が1933年(昭和8年)に陸軍専用になったこともあり、航空機製造などの大規模な軍需工場が建設されるようになり、1938年(昭和13年)に陸軍航空工廠が移転してくると、合わせて大規模な従業員住宅建設が行われることとなりました。特に近代化された八清住宅周辺では市場や映画館などが作られて商業が活性化し、繁華街が形成されました。
【戦後~現代】
戦後、軍需工場は廃業し、旧軍の施設は米軍に接収されました。
都心への通勤圏として昭島も、近郊住宅地が発展し、大型団地建設などで人口がさらに増加した。また、1957年(昭和32年)に制定された工場誘致条例によって工業団地が造成され、近年では電子機器などのハイテク産業が発展した。
昭島市の農業は、日本なしをはじめ、野菜・果樹・花・植木など多様な農産物が作られています。農地が減少し厳しい生産環境のなか、新鮮で安全・安心をモットーに即売会や市民朝市等を実施し新鮮な農畜産物を市民に供給しています。
1987年(昭和62年)に10万都市となりました。その後、道路整備も進みJR青梅線の各駅のバリアフリーや通り抜け通路も整備され、アンダーパスも2か所でき、渋滞が緩和されました。昭島駅の北側エリアの商業化も進み、「ともにつくる・未来につなぐ・元気都市あきしま ~人も元気・まちも元気・緑も元気~」なまち昭島を目指しています。
水と緑の昭島
昭島市は水や緑などの豊かな自然環境を特徴としています。東京都のほぼ中央に位置しており、急速な都市化の進展や、それに伴う農地の減少などにより緑地は減少傾向にありますが、現在でも比較的豊かな自然が残された「水と緑」のまちです。
市の南部には多摩川が流れ、かつてその流れによってつくられた立川崖線が続き、そのハケ下には湧水が点在しています。また、拝島の昭和用水堰から取水している昭和用水やその支線が立川崖線沿いに流れ、水田の耕作などに利用されています。一方、北部には羽村堰からの玉川上水や、そこから取水された拝島分水、柴崎分水があり、これらの水が市内を潤す水環境を形成しています。
市内を西から東へ横断する立川崖線沿いのまとまった緑地には、ケヤキやクヌギ、コナラなどの落葉広葉樹が存在しています。南部には多摩川の対岸から八王子市にまでつながる滝山丘陵、東部には国営昭和記念公園や昭和公園、北部には代官山の平地林などが存在します。市内に分布しているこれらの緑地が、市民に安らぎをもたらす緑環境となっています。
昭島市自治会連合会は、市民の大切な財産である「水と緑」を誇りに思い、更なる「住みよいまちづくり」を皆さんと一緒になって進めてまいります。
■多摩川多摩川とその河川敷は規模の大きな水と緑の空間を形成し様々な生物が生息しています。水鳥公園、拝島自然公園、大神公園、多摩川緑地くじら運動公園等が整備されています。また、水辺の楽校では魚とり、魚釣りなどのイベントが行われています。 |
■湧水市内の崖線下には、湧水地が点在しています。中沢堀は阿弥陀寺湧水、諏訪神社湧水、わさび田堀を集め昭和用水に流れ込んでいます。 |
■玉川上水玉川上水沿いの土手にはケヤキやクヌギ、コナラなどの雑木が生育し、遊歩道も整備されています。 |
■立川崖線立川崖線沿いにまとまった緑地が小規模に存在しています。ケヤキを始めとした落葉広葉樹林やイチョウ、カヤ、クス、スダジイなどが存在しています。 |
■社寺林市の南部には、神社や寺が点在し、その周辺の社寺林は市街地の中の貴重な水と緑の空間を形成しています。 |
■代官山昭和飛行機所有の代官山の自然林は、市街地の中のまとまった緑として残存しています。 |
■滝山丘陵市の南部から隣接する八王子市にかけてつながる丘陵で、尾根沿いの雑木林にはなだらかなハイキングコースが整備されています。 |
■国営昭和記念公園昭島市と立川市とにまたがって位置し、昭和天皇陛下御在位50年記念事業の一環として開設されました。『緑の回復と人間性の向上』をテーマに、豊かな自然環境の中で多彩なレクリエーション活動の場として、首都圏における唯一の国営公園です。 立川飛行場跡地に総面積180haにおよぶ公園で、レクリエーション施設としてと、大規模な震災や火災などが発生した場合は、被災した都民の避難地としての機能も果たすようになっています。 四季おりおりの花や植物のほか、年間を通じて行われる様々なイベントを提供してくれていて、多くの昭島市民も散策やスポーツ、文化活動に利用しています。 入場料は大人が400円、小人80円、65歳以上は200円で、年間パスポート4,000円があり65歳以上の方は半額の2,000円で多くのシルバーの方が活用しています。 (写真:国営昭和記念公園からの提供) |
アキシマクジラ
1961年(昭和36年)8月20日、市内のJR八高線多摩川鉄橋近くでクジラの化石が発見された。化石の全長は16メートル、ヒゲクジラの仲間でコククジラに近い種類ですが同じ種類のくじらが他に発見されていないため、「アキシマクジラ」と命名された。
発掘当初はおよそ500万年前と推定されていたが、科学の進歩により現在では160万年前の地層から出土したとされている。100万年以上前のクジラの全骨格がほぼ完全な形で発掘されたのは、世界でも初めてだと言われ世界的資料として、国立科学博物館新宿分館に大部分が保存されている。その一部の骨(胸椎と上腕骨)を市庁舎1階ロビーに常設展示しています。
昭島市の多摩川周辺ではアケボノゾウの足跡の化石や多摩川オオカミなどの骨格の化石、貝類の化石、貝類の生痕化石(サンドパイプ)、メタセコイア(和名:アケボノスギ)の化石や炭化樹木などが出土している。これらの発掘から、160万年前この地域一帯が海であったことが想像できます。
昭島の水道水
昭島市は市営水道を持つ都内では唯一の市です。1954年(昭和29年)11月に初めて、昭島駅前地域に給水をはじめ当時の市の人口36,482人中、利用できた人は6,747人でした。昭島市の水道は、事業開始から一貫して地下水のみを水源としたおいしい水です。現在、東京都の区市町村で、地下水(深層地下水)のみを水源としている自治体は昭島市だけとなっています。市内の配水管の長さはなんと約244㎞となっております。
東京一美味しい水は言うまでもなく、日本の名水の一つでもあり、マスコミに取り上げられていますが美味しさの秘密は、昭島市の水道水源は、地下70mより深い層を流れる深層地下水をくみ上げています。深層地下水は、山に降った雨や雪が約30年という長い年月をかけてしみ込んだものです。水が地層にしみ込む過程において、土壌がフィルターの役割を果たし、不純物を取り除くとともに炭酸やミネラル成分等を溶かしながらしみ込みます。こうして流れてきた深層地下水を利用する昭島の水道は、ミネラルウォーターと変わらない美味しさです。
昭島市の水源の地下水位も低下した時期がありましたが、東京都の揚水規制等により水位は上昇してきています。また、水位低下による目立った地盤沈下は発生していません。これは、昭島市の地下を構成している地層が砂や砂礫層であるためと考えられ、東京都の区市町村において唯一深層地下水のみを水道水源としています。これは、他の地域に比べ地下水が豊富な位置に存在するからです。
地下水は市内に20箇所ある深井戸から汲み上げられます。1日に約38,000立方メートルの地下水が汲み上げられています。井戸の深さは150m~250mです。
地下から汲み上げられた水は、配水場の中にある着水井(ちゃくすいせい)という場所に集められます。ここに集めて、汲み上げた水の量を計測し、地下水をまとめて消毒しています。
昭島市の人口・世帯数
総人口 | 男 | 女 | 総世帯数 | 人口密度 |
---|---|---|---|---|
113,646人 | 57,134人 | 56,512人 | 51,407世帯 | 6,558人/k㎡ |
昭島市の市章・木・花
市章は、昭和29年5月に制定され、黒字が「昭」、内側の白地の“4つのマ”が「島」を表し、そして円によるまとまりによって、和と団結を象徴しています。
市の木と花は、昭和49年、市制施行20周年を記念して、市民に公募し制定しました。
昭島市の歳時記
史跡めぐり
水と緑の昭島のまちを四季を楽しみながら、史跡、文化財を訪ねてみませんか?
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九ヶ村用水取水口跡 ⇒昭和用水堰 ⇒霞堤 ⇒砂利採取場跡と砂利鉄道 ⇒アケボノゾウ足跡化石出土地 ⇒市立拝島自然公園 ⇒拝島の渡し跡 ⇒あきしま水辺の楽校 ⇒平の渡し跡 ⇒アキシマクジラ出土地 ⇒八高線列車事故と車輪 ⇒築地の渡し跡
拝島分水取水口 ⇒都水道局拝島源水給水口 ⇒こはけ橋から拝島上水橋へ ⇒上水公園 ⇒宮沢橋 ⇒美堀橋付近 ⇒美堀橋から松中橋へ ⇒砂川・柴崎分水取水口