福島の歴史を紐解く~子どもが好きな向宿の子もち地蔵~

地元の歴史を知ることで、現在、私たちが生活していくうえでの先人の方がしてきた慰労が偲ばれます。今回は「向宿の子もち地蔵」について取り上げます。

子どもが大好きなお地蔵さま

奥多摩バイパスの多摩大橋北交差点を東に二百メートルほど行くと、斜めに北東に入る小道がある。これを百メートルばかり入った路傍に、およそ一間四方の小さな祠(ほこら)がある。あたりは福島町の、通称「向宿」(むかいじゅく)と呼ばれる地域で、ふた昔ほど前までは、周囲を水田に囲まれた戸数三十軒ほどの小さな集落であった。現在は宅地化が進み、そんな昔の面影はないが、その一角に祠はひっそりとたたずんでいる。祠の中には、子どもの前掛けや着物を幾重にも巻きつけ、花や千羽鶴で飾られた、ちょうど赤ん坊ぐらいの背丈の小さなお地蔵さまがまつられている。通称「向宿の子もち地蔵」と呼ばれる石のお地蔵さまである。磨滅して読みにくいが、台座には「宝暦十二年(1762)十月」「願主善兵衛」などの文字が刻まれ、造立年代と造立者が知られる。しかし、造立の由来や善兵衛がどのような人かは知る由もない。ただ、赤ん坊を抱いたその容貌から「子もち地蔵」の名で古くから親しまれている。

このお地蔵さまには次のような伝承がある。むかし、近所の子どもたちがお地蔵さまを持ち出し、祠の北を流れる田用水「中沢堀」の流れにさらし、水浴びをして遊んでいた。ところが、そこを通りかかったある人が、「お地蔵様を粗末にしてはいけない」と、子どもたちをしかりつけ、元の所に安置してしまった。その夜、その人の夢枕にお地蔵さま現れ、「せっかく子どもたちと仲良く遊んでいたのに、お前はなぜ私を一人ぼっちにさせてしまったのか・・・・。」と言って悲しんだ、というのである。また、ある時、老婆が祠の前を通りかかったら、子どもたちがその中に入って遊んでいた。老婆は「そんな所で遊ぶと罰があたるよ」と、小言を言った。その余端、老婆は足が痛くなり、やっとの思いで帰宅した。これはどうしたことかと主人に話すと、お地蔵さまの罰があたったに相違ない、という。老婆は痛い足を引きずり、お地蔵さまにお参りし、お詫びを言って帰ろうとしたら、すでに痛みが引いていた。という話も伝わっている。こした伝承には、子どもをむやみにしかってはいけない、というような教訓がお地蔵さまを通して語られているようにも思えるが、いずれにしても、子どもが大好きなお地蔵さまであることがおわかりいただけると思う。

こうしたお地蔵さまであるから、昔から子どもの夜泣き、夜尿症、病気、けがなどに霊験があるとされ、近所の人々の信仰を集めている。医学の進歩していない昔はもちろん、今でも赤ん坊の夜泣きなどはしばしば親をこまらせる。現在でもなお信仰を集めているのは、こうした親の切実な願いによるものなのであろう。参拝者は願い事が成就すると、子どもの着物や前掛け奉納する。また、お地蔵さまが着ている衣類を借用し、子どもに着せ、平癒すると新しいものを奉納するという人もいる。一方、祠の中には「お札」が用意されている。いくばくかのお賽銭を奉納してこれを持ち帰り、直ればいろいろなお供え物をしてお礼参りをするともいう。このお地蔵さまには、向宿の住民によって古くから講(信徒会)が組織され、管理がなされている。縁日は四月と十月の二十四日で、昔は露店が出たりして賑わいをみせた。現在は春の縁日のみ行われている。夕方から晩にかけて、僧侶の読経や百万遍、それに御詠歌の奉納もあり、ささやかではあるが、いかにも庶民的で素朴な縁日である。路傍の小さなお地蔵さまではあるが、庶民の習俗や生活史の一端をうかがうことのできる貴重な文化財といえるであろう。

(付記)平成八年十一月、祠の老朽化にともない、地域住民の喜捨によって立派な祠が再建されました。お地蔵様は今日でもなお、地域の人々によって大切にされ、篤い信仰を集めています。

詳しくは⇒向宿の子もち地蔵結合をご覧ください。