八高線多摩川鉄橋脇のモニュメント

八高線多摩川鉄橋脇に錆びた車輪が置かれたモニュメント=写真=があります。終戦間もない昭和20年8月24日7時40分頃多摩川鉄橋上で列車同士が正面衝突し、少なくとも105名の乗客が亡くなる大事故がありました。下り列車は復員兵等で、また上り列車は女学校の生徒や疎開先から自宅に帰る人々等で満員でした。当地福島や日野などの近隣住民は濁流の多摩川に投げ出された乗客の救助活動にあたったそうです。タブレット(通票が入った輪っか)を持った一列車しか乗り入れることができないことになっていた単線区間でなぜこのような悲惨な事故が起こってしまったのでしょうか?

舟越健之輔氏著「大列車衝突の夏」毎日新聞社1985/12出版 にその答えがあります。
「豪雨で通信が途絶したため小宮駅が孤立しタブレットが使えなくなってしまった。このため小宮駅長は規定に従い連絡兼タブレット替わりとなる駅務員を小宮駅から拝島駅に向かわせるのですが、当日はダイヤが大幅に乱れていたうえ運行変更などが重なり両駅間で連絡の行き違いが生じた。」ことが原因と言われています。

著者の船越氏は運よく助かった乗客の証言、多摩川鉄橋脇住民の上り列車の目撃証言、発車見合わせによる復員兵等のいら立ちの言動、国鉄の運転取扱基準規定などから事故に至る経過を詳しく記されています。

通信の途絶や連絡の駅務員が小宮駅から徒歩で拝島駅に向かうことなど通信手段や交通手段が発達した現在ではあり得ないと考えていましたが、東日本大震災によってこれが過信であることを思い知らされました。

また氏は2004年3月モニュメント築造に当たり市主催の講演会に招かれ講演しています。事故列車に乗り合せた乗客の方も聴講されていて、“後部車両に乗っていたため衝突時座席から投げ出されたが助かった。事故後徒歩で中央線日野駅に向かった。そのときには天候は回復していてカンカン照りであった”などと話していました。

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