福島の歴史を紐解く~福島(築地)の渡し~
地元の歴史を紐解くことで、普段の私達が何げなく生活していることが先人の苦労で偲ばれるのではないでしょうか。今回は、「福島(築地)の渡し」について取り上げます。
市域にはその昔、多摩川にかける渡し場が三ヶ所あった。西から拝島の渡し、平の渡し、築地の渡しである。福島に身近な「築地の渡し」は、現在の多摩大橋付近にありました。明治以降は、福島村地先にあったため「福島の渡し」とも呼ばれた。この道筋は村山方面と八王子・大山(神奈川県)を結ぶ「大山道」と呼ばれる古道で、この渡しも宝永年間(1704-11)にはすでに機能していたことが玉川町の並木安子家文書によって知られている。以来、拝島の渡しと同様、舟渡しを原則とし、渇水期には簡単な木橋をかけ、旅人の便に供していた。この渡しの管理は、築地・福島・郷地・中神・宮沢・および粟ノ須・石川(八王子)、中藤(武蔵村山市)、砂川(立川市)の九ヶ村で組織された組合によってなされ、実際の運行は築地村民によって行われていた(中野和夫家文書)。一方、船は一艘であったが、万延二年(1861)の記録には「長さ四丈五尺、横七尺五寸」とあり、馬渡用のかなり大きな船も使われていたことがわかる。なお、江戸時代の運賃は不明であるが、福島町広福寺に所蔵されている大正初期の「運賃額表」には、「独歩一人二銭、自転車一輛人共三銭」などと詳しく記されている。これは当時、渡し場に掲示されていたものである。一見に値しよう。
ところで、幕末もおしつまった慶応二年(1866)六月、この渡し場で血なまぐさい事件がおこった。その十三日、名栗(埼玉県)で発生した農民一揆の一隊は諸所を打ちこわしながら市域に乱入、その人数は三千人にものぼった。同十六日、中神・宮沢両村で二軒の豪農宅を打ちこわしたあと、一揆勢はこの渡し場へ集結、八王子方面へ渡りはじめた。ところが、対岸に待ち構えていた日野の農兵隊は、鉄砲五十挺を一勢に発砲、鳶口や木刀、掛矢ぐらいしか持たない一揆勢はひとたまりもなく、くもの子を散らすように敗走したのであった。いわゆる武州一揆であるが、この築地の渡しは、武州一揆敗走の地なのである。この戦闘で一揆側は二十一名の死者と四十一名の逮捕者を出している。渡し場が幕府・支配者側にとって軍事戦略上、重要な拠点であったことを物語るとともに、市域でおこったもっとも血なまぐさい出来事であったといえる。この渡しも他の渡しと同様、昭和初期には衰退した。そして、この地に昭和四十一年、待望の多摩大橋がかけられ、今日に至っていいる。
詳細は⇒福島(築地)の渡し結合をご覧ください。